セスブック8『精神の本質』要約と解説【中編】〜愛とセクシャリティの真実、言葉と神の根源〜

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 【前編】では、私たちの本質である「精神」が時間と空間を超えた広大な環境であること、そして「夢」が決して非現実的なものではなく、精神の多次元的な領域を探求するための「目覚めた意識活動」であること、さらに、私たちの現実は直線的な因果律ではなく、「感情の連想」という時間なき原理によって組織されていることを学びました。

 この驚くべき精神の基本構造を理解した今、【中編】では、その土台の上に築かれる、より具体的で、私たちの人生の根幹をなすテーマへと深く踏み込んでいきます。

 それは、**「愛」「セクシャリティ」「言語」「神」**といった、人間経験の核心そのものです。

 「男らしさ」「女らしさ」という当たり前の区別は、本当に生来のものなのでしょうか?
  私たちが他者と心を通わせる「愛」の本質とは?
  思考を形作る「言葉」はどこから生まれ、そして、私たちが探し求める「神」や「万物の根源」と、この小さな自分は一体どう関係しているというのでしょうか?

 この中編でセスが解き明かすのは、私たちが社会や文化から刷り込まれてきた常識を根底から覆す、衝撃的な真実かもしれません。
 精神という広大な視点から人間経験の核心を眺めるとき、そこには分断ではなく統合が、制限ではなく無限の自由が見えてきます。

本記事のラジオ形式の音声版をご用意いたしました。
文章を読む時間がない時や、リラックスしながら内容を深く味わいたい時などにご活用いただければ幸いです。

目次

精神とセクシャリティ – 愛と創造性の根源 (SESSION 766, 771)

 人間社会のあらゆる側面において、最も根源的な分類の一つが「性別」です。
 私たちは生まれながらにして男性か女性かに分けられ、それに応じた振る舞いや役割を期待されます。
 しかしセスは、この二元的な性の見方こそが、私たちの可能性を著しく制限している大きな要因だと指摘します。

まずセスは、私たちの最も根源的な自己である精神の性質について、明確にこう述べます。

「精神は男性でも女性でもない。」

 精神そのものには性別がありません。
 それは、男性的な特性と女性的な特性の両方を可能性として内包する、いわば「性の源泉」です。
 私たちが現在「男らしい」と考える論理的思考や攻撃性、「女らしい」と考える直感や受容性といった特徴は、生物学的に定められたものではなく、特定の時代や文化がその価値観に応じて後天的に割り当てたものに過ぎないのです。

 セスによれば、原始の社会では、現代よりもはるかに性の役割分担は流動的でした。
 男性が育児や衣服作りをし、女性が狩りに出ることもごく自然なことでした。
 種の生存のためには、特定の役割に特化しすぎることなく、誰もがあらゆる能力を発揮できる柔軟性こそが必要だったからです。

 さらにセスは、私たちの性の本質について、より踏み込んだ見解を示します。

「人間が本質的に持っているバイセクシャリティ(両性愛的な性質)が、物理的な生存と、あらゆる種類の文化的な相互作用を可能にする協力の基盤を提供している」

 ここで言う「バイセクシャル」とは、単に性的な指向を指すだけではありません。
 それは、誰もが内面に男性性と女性性の両方のエネルギーを持ち、異性だけでなく同性に対しても深い愛情や共感、連帯感を抱くことができるという、精神の根源的な性質を意味します。

 もし人間が厳格な異性愛だけの存在であれば、男性同士、女性同士の間には熾烈な競争しか生まれず、家族を超えた氏族や部族、そして国家といった大きな社会共同体が形成されることは不可能だったでしょう。
 私たちが友人や仲間と協力し、社会を築き上げることができるのは、この本質的なバイセクシャリティが、性別を超えた愛と信頼の絆を生み出しているからなのです。

 この精神の「バイセクシャル」な性質を理解すると、同性愛に対する見方も全く変わってきます。

 セスは、異性愛だけが唯一の「正しい」愛の形であるという考えを明確に否定します。

 彼によれば、同性愛やレズビアンの関係は、精神が持つ本質的な性質から生まれる、完全に自然で正当な愛の表現なのです。
 精神の広大な領域には、愛が表現されるための無数の道筋があり、同性への愛もその中の美しく、重要な一つの道なのです。
 精神の視点から見れば、愛のエネルギーの流れに優劣や正誤はなく、ただその表現の多様性があるだけです。

 では、なぜ同性愛はしばしば葛藤や罪悪感の原因となるのでしょうか?
 セスはその原因を、個人の性質ではなく、社会が押し付ける硬直した信念にあると指摘します。

 「男性はこうあるべき」
 「女性はこうあるべき」

という狭い枠組みの中で、人々は自分自身の自然な感情や性質を抑圧せざるを得なくなります。
 その結果、多くの人々が自分自身の性の役割の「カリカチュア(戯画)」、つまり誇張され歪められた役割を演じることになり、その不自然さがさらなる対立や内面的な苦しみを引き起こすのです。

 この問題は特に、社会が「女性的」と見なす特性(例えば、芸術的感受性や深い共感性)を持つ男性や、「男性的」とされる特性(論理的思考や強い独立心)を持つ女性にとって深刻です。
 彼らは、自分自身の最も自然で本質的な部分が、社会が定めた性の役割と矛盾するために、「自分はどこかおかしいのではないか」という不必要で破壊的な罪悪感に苛まれます。

 セスは、このような内的な分裂こそが、個人の創造的なエネルギーの流れを阻害し、不必要な苦しみを生み出す根源だと語ります。
 苦しみの原因は性的指向そのものではなく、自分自身を偽り、本来の性質を否定しなければならないという、外部から押し付けられた信念体系なのです。

 現代社会では「愛」と「性」が過度に結びつけられ、しばしば同一視されます。
 しかしセスは、それは愛の広大な可能性を著しく矮小化する見方だと警告します。

「愛は、存在がそこから生まれる力である。…(中略)…愛は表現と創造性を求める。性的表現は、愛が創造性を求める一つの方法であるが、決して唯一の方法ではない」

 セスにとって、愛と創造性は同義です。
 愛とは、それ自体が何かを生み出し、表現し、拡大していこうとする根源的な衝動なのです。
 その表現方法は、芸術、科学、宗教、他者への奉仕、自然との触れ合いなど、無限に存在します。

 性的表現は、その中の重要かつ美しい一つの形態ではありますが、決してすべてではありません。

 この区別を忘れ、愛の表現を性に限定してしまうと、多くの歪みが生まれます。
 例えば、同性の友人への深い愛情を素直に表現できなかったり、性的な関係を持たない人々が愛を知らないかのように見なされたりします。
 愛をその本来の広大さで捉え直すこと。
 それが、私たちがより自由に、豊かに生きるための鍵となります。

 セスのセクシャリティに関する教えは、現代社会が直面するジェンダーの問題に、非常に深い洞察を与えてくれます。
 LGBTQ+の権利や多様な家族のあり方が議論される現代において、セスの言う「本質的なバイセクシャリティ」や「性の役割の流動性」という概念は、まさに時代が求める新しい人間観の基盤となり得ます。

 例えば、社会的に「男らしい」とされる男性が、自身の内にある優しさや直感、芸術的な感受性を「女々しい」ものとして抑圧するとき、彼は自分自身の半分を否定していることになります。
 その結果生じる内的な不全感やフラストレーションは、時として過剰な攻撃性や支配欲として外部に現れることがあります。
 逆に、女性が論理的思考やリーダーシップを発揮しようとすると、「可愛げがない」といったレッテルによってその能力が抑圧されることも少なくありません。
 
 セスが指摘するのは、こうした社会的な型に自分を押し込めることこそが、個人の精神的な健康を損ない、創造性を奪う「不自然な」行為であるという点です。

 社会が押し付ける「男らしさ」「女らしさ」の窮屈な型から自由になり、一人ひとりが自分自身の内なる男性性と女性性のユニークなバランスを見出し、それを恐れずに表現すること。
 それは、自分自身の全体性(ホールネス)を取り戻すための、勇気あるスピリチュアルな探求です。

 この内的な統合が達成されたとき、私たちは他者の多様性をジャッジすることなく受け入れ、性別という枠組みを超えた、より深く豊かな人間関係を築くことができるようになります。

 それこそが、個人にとっても社会全体にとっても、より健全で創造的な未来への道筋なのかもしれません。

愛の言語 – 言葉が生まれる前のコミュニケーション (SESSION 771)

 私たちは「言葉」を使って思考し、他者とコミュニケーションを取ります。
 しかし、言葉が生まれる前、人類はどのようにして世界を認識し、意思を伝え合っていたのでしょうか?

 セスは、すべての言語の根源に、現代人が忘れ去ってしまった、より根源的なコミュニケーションの形、「愛の言語」が存在したと語ります。

 セスによれば、言語が生まれる根源的な動機は、「愛する対象を知り、探求し、コミュニケーションしたいという欲求」です。
 そして、最も原初的な「愛の言語」とは、言葉やイメージを介さない、直接的な一体化の体験でした。

「初期の人類は、自然を自分自身の延長として愛し、一体化していた。…(中略)…彼は自分自身だけとして自己を認識するのではなく、接触する自然のすべての部分とも自己を認識していた」

 古代の人類は、現代人のように自分と世界を明確に分離していませんでした。
 彼らにとって、森の木々や流れる川は、単なる外部の客体ではなく、自己の主観的な領域が物質化したものと認識していました。
 木を探求することは自己を探求することであり、川の流れに意識を合わせることは、自己の意識を拡大することだったのです。

 この一体化の体験は、単なる詩的な比喩ではありません。
 セスは、それが非常に実践的な知覚の方法であったと述べます。

「ある母親が、子供たちが遊んでいる木の一部になることで、自分自身は遠くにいながらも、その木の視点から子供たちを見守ることができたとしたら、それがどのようなものかを説明しようとすることは全く別のことだ」

 意識は、私たちが考えているよりもはるかに流動的で、肉体という一つの場所に固定されてはいません。
 古代の人々は、この意識の流動性を自然に使いこなし、例えば自分の意識を川の流れと融合させて地形を探ったり、動物の意識と一体化してその力を借りたりしていました。

 これをセスは「直接認識(direct cognition)」と呼びます。

 そこには、主観と客観の分離がなく、知ることは「それになること」と等しかったのです。
 言葉や、心にイメージを思い浮かべるという行為は、この直接認識の能力が失われ、人間が世界を「外側から」眺めるようになって初めて必要になった、いわば代替的なコミュニケーション手段なのです。

 では、私たちが現在使っている音声言語は、この根源的な「愛の言語」と全く無関係なのでしょうか?
 セスは、そうではないと言います。
 私たちの言葉もまた、より深いレベルでのコミュニケーションが物質化したものです。

「あなた方が作る音は、あなた方の分子構造と関連している。…(中略)…アルファベットは自然な鍵であり、そのような自然な鍵には分子レベルの歴史がある」

 私たちの身体を構成する原子や分子は、それ自体が情報を保持し、相互にコミュニケーションする意識体です。
 私たちが発する「ア」や「イ」といった一つ一つの音は、この内なる分子レベルのコミュニケーションのパターンが、呼吸や声帯という物理的な仕組みを通して外側に増幅されたものなのです。

 私たちが言葉を話すとき、私たちは自分自身の意図を表現していると同時に、私たちの身体を構成する無数の意識たちの「言語」を、知らず知らずのうちに代弁しているのです。

 セスの語る「直接認識」や「愛の言語」は、テレパシーやチャネリングといった超常的なコミュニケーションの仕組みを理解する上で、重要なヒントを与えてくれます。

 テレパシーとは、言葉を介さずに思考や感情が伝わる現象ですが、これはまさにセスが語る、意識が直接的に融合するコミュニケーションの形と一致します。
 また、ジェーン・ロバーツがセスという存在と繋がったチャネリングも、彼女の意識が特定の「欲求」と「意図」によって、精神の広大な環境に存在する別の意識領域(セス)と「連合」し、その情報を言語として翻訳したプロセスと考えることができます。

 私たちが普段「直感」や「インスピレーション」と呼んでいるものも、この根源的なコミュニケーションの名残なのかもしれません。
 論理的な思考の合間にふと湧き上がるアイデアや感覚は、精神の広大な領域から送られてくる、「愛の言語」によるメッセージなのかもしれません。

精神、言語、そして神 – あなたと神の驚くべき関係

 愛とセクシャリティ、そして言語の根源を探求してきた旅は、いよいよ最も深遠なテーマ、「神」へと至ります。
 私たちは神を、自分たちの外側に存在する、絶対的で完成された存在として捉えがちです。
 しかしセスは、その見方もまた、私たちの限定的な意識が生み出した幻想であると語ります。

 私たちが「本当の自分を探したい」と思うとき、私たちは無意識のうちに、「どこかに完成された、理想の自分がいるはずだ」と考えています。
 神を探すときも同様に、「宇宙のどこかに、全知全能の完成された神がいるはずだ」と考えます。

 しかしセスは、この「完成形」という考え方自体が誤りであると指摘します。

「神と精神は、あなた自身がそうであるように、常に拡大し、言葉で表現できず、そして常になりつつある」

 自己も神も、固定された「名詞」ではなく、常に変化し、拡大し続ける「動詞」なのです。
 それは、常に新しい可能性を創造し、経験し続ける、無限のプロセスそのものです。
 あなたがこの文章を読んでいるこの瞬間にも、あなたと神は、新しい自己、新しい神へと「なりつつある」のです。

 では、その「なりつつある」神と、この小さな自分は、どのような関係にあるのでしょうか?
 セスは、両者が主従関係にあるのではなく、絶対的に相互依存的な関係にあると述べ、本書の中でも特に重要ないくつかの言葉を伝えています。

「精神とその源泉、あるいは個人と神は、あまりにも不可分に相互接続されているため、一方を他方から切り離して見つけようとする試みは、自動的に問題を混乱させる」

「神が存在するから、あなたは存在する。あなたが存在するから、神は存在する」

 これは衝撃的な宣言です。
 私たちは神によって生かされているだけでなく、私たち一人ひとりの存在が、神を神たらしめているというのです。

 神は、私たち個々のユニークな経験を通してでしか、自分自身を知り、新しい自分を創造することができません。
 あなたの喜び、悲しみ、学び、その人生のすべてが、神の自己創造のプロセスにとって不可欠な一部なのです。
 あなたは、神の壮大な物語を構成する、かけがえのない一部なのです。

この神と個人の関係を、セスは言語を例に説明します。

「言語は、話されている内容だけでなく、話されていない内容によってもその意味を得る。…(中略)…あなたの意識は、話されていない現実の上に成り立っている」

 これは、私たちが話す言葉は、その背景に、選ばれなかった無数の他の言葉、そして言葉と言葉の間にある「沈黙」や「間」があるからこそ、意味を持ちます。
 それと同じように、私たちが経験しているこの物理現実は、その背景に、顕現することを選ばれなかった無数の可能性の現実、そして言葉では表現できない広大な「沈黙の領域(神の領域)」があるからこそ、その輪郭を保つことができるのです。

 私たちの存在は、この広大な沈黙の海から浮かび上がった、一つの美しい「言葉」のようなもの。そしてその言葉は、背景にある沈黙の豊かさを、常に内に含んでいるのです。

まとめ

【中編】では、人間経験の核心をなすテーマを、精神という広大な視点から探求してきました。

  • セクシャリティが文化的な役割分担を超えた、協力と創造性の源泉であること
  • すべての言語の根源に、一体化による「愛の言語」が存在すること
  • と私たちが、相互に依存し合いながら常に新しい現実を創造し続ける、不可分な共同創造主であること

 これらの探求を通して見えてきたのは、私たちが「分離している」と思い込んでいるものが、実はより深いレベルで深く結びついているという事実です。

 男性と女性、自己と他者、人間と自然、そして個人と神。

 これらの間に引かれた境界線は、精神の広大な現実の中では溶け合い、一つの壮大な創造のタペストリーを織りなしているのです。

 次回の【後編】では、この3部作のクライマックスとして、この壮大なタペストリー、すなわち「物理的な現実」そのものが、どのようにして織り上げられるのか、その具体的なメカニズムの核心に迫ります。

ブログを読んで、さらに見識を深めたいと思ったら、ぜひ本書を手に取ってみてください。
本書は英語版のみとなります。

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