前回の記事では、セスが示す宇宙の基本法則――私たちの思考や信念が、目の前の現実を創造しているという、革命的な真実を探求しました。
そして、私たちの本質が肉体に閉じ込められた存在ではなく、時間と空間を超えた「多次元的な魂」なのです。
この理解は、私たちに人生の創造主としての力を与えてくれます。
しかし同時に、それは私たちを、ある一つの根源的な問いへと導きます。
もし私たちの本質が肉体ではないのなら、その肉体が活動を終える時、すなわち「死」が訪れる時、私たちは一体どうなるのでしょうか?
古来より人類は、死を「終わり」や「別れ」、「未知なる恐怖」として捉え、様々な宗教や哲学がその意味を問い続けてきました。
しかしセスが語る「死」の様相は、それらとは全く異なります。
それは、悲劇でもなければ、裁きの時でもありません。
セスによれば、死とは単に意識の焦点を、物理的な現実から別の現実へと移行させる、自然で創造的なプロセスにすぎないのです。
それは、古い服を脱ぎ捨てて新しい服に着替えるようなもの――バシャールが好んで使うこの比喩のように、死は終わりではなく、魂の連続した旅における一つの「場面転換」に他なりません。
この記事では、セスが詳細に明かす「死後の世界」の驚くべき仕組みと、魂の永遠の旅について、探っていきます。

本記事のラジオ形式の音声版をご用意いたしました。
文章を読む時間がない時や、リラックスしながら内容を深く味わいたい時などにご活用いただければ幸いです。

セスが語る「死」の体験―『神へ帰る』の視点と共に

前編で私たちは、自らが人生の創造主であることを学びました。
その理解は、必然的に私たちを次の深遠な問いへと導きます。
「肉体という器を脱ぎ去る時、私たちの意識はどうなるのか?」
この人類最大の謎に対し、セスは、罰や恐怖、そして終焉といった文化的な刷り込みを根底から覆す、壮大で美しいビジョンを提示します。
“Life is a state of becoming, and death is a part of this process of becoming.”
(新訳:生とは「なり続ける」状態のことであり、死とは、その「なり続ける」プロセスの一部なのです。)
セスは、死を「生」と対立するものではなく、生という絶え間ない変化と成長のプロセスに内在する、自然な一場面として捉えます。
私たちが日々、古い細胞が死に、新しい細胞が生まれる中で生きているように、意識もまた、より大きなスケールで変容を続けているのです。
この視点に立つとき、死は恐怖の対象ではなく、魂の成長における自然なステップとして受け入れることができます。


死のプロセス:「信念が創り出す世界」の始まり
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の著書『神へ帰る』では、死のプロセスを3つの愛に満ちたステップで説明しています。
この枠組みを用いると、セスが語る形而上学的な死の体験が、私たちの心に寄り添う、よりパーソナルな物語として立ち現れてきます。
- 第一のステップ:降参と受容(Letting Go)
これは、意識が肉体の生存本能から自らを解放する段階です。
死への恐怖は、魂の恐怖ではなく、肉体が自己を保存しようとする生物学的プログラムに過ぎません。
そのプログラムから手を放し、大いなる生命の流れに自らを明け渡す、完全な「降参」の時です。 - 第二のステップ:幻想を体験する(Experiencing the Illusion)
これが、セスの教えの核心「信念が現実を創る」法則が、物理的制約のない純粋な形で現れる段階です。
“A belief in hell-fires can cause you to hallucinate hellish conditions. A belief in a stereotyped heaven can result in a hallucination of heavenly conditions. You always form your own reality according to your ideas and expectations.”
(新訳:地獄の炎を信じることは、地獄のような状況を幻視させることがあります。紋切り型の天国を信じることは、天国のような状況の幻視に繋がります。あなたは常に、自らの考えと期待に応じて、あなた自身の現実を形成するのです。)
セスは、死後すぐに体験するのは「自分が真実だと思っていること」だと断言します。
この時、意識は非常に反応性の高い精神的な環境へと移行し、思考はほぼ瞬時に形をなします。
しかし、これらの体験は永続的なものではありません。
- 第三のステップ:真実を知る(Knowing the Truth)
幻想の体験を通じ、自らの創造力を再認識した後、魂は「真実」、すなわち自らが永遠の存在であり、神(すべてなるもの)の愛そのものであることを思い出します。
この段階で、セスが語る「ライフレビュー(人生の回顧)」が行われます。
これは罪を裁くための裁判ではなく、関わった全ての人々の視点から自らの人生を再体験し、ジャッジメントではなく、深い共感と理解、そして自己への完全な許しを学ぶための、愛に満ちたプロセスです。
輪廻転生の壮大なドラマ:魂の選択と成長

死後の世界で自らの真実を思い出し、癒やしを終えた魂は、多くの場合、再び物理次元に生まれること、すなわち「輪廻転生」を選択します。
これは義務ではなく、魂自身の自由な意思による、壮大な学びと創造の選択です。
私たちはなぜ、何度も生まれ変わるのか?
セスによれば、魂が輪廻転生を選ぶ主な目的は、「価値の成就(Value Fulfillment)」という、内なる根源的な衝動のためです。
それは、魂が持つ無限の可能性を、あらゆる側面から体験し、表現し、成長させたいという純粋な創造的欲求です。
“First of all, a soul is not something that you have. It is what you are… The soul or entity is…in a state of becoming.”
(新訳:第一に、魂とはあなたが「持っている」ものではありません。それは、あなたが「そうである」ものなのです… 魂、あるいはエンティティは…常に「なり続ける」状態にあります。)
私たちは魂を、救われるべきか弱い「モノ」として捉えがちです。
しかしセスは、魂とは、私たちという存在そのものであり、決して完成することなく、無限に成長し続けるダイナミックな意識なのだと語ります。
全体我(エンティティ)の壮大なアートプロジェクト
私たちが「自分」だと思っている人格は、セスによれば「全体我(エンティティ)」と呼ばれる、より巨大な意識体の一つの側面にすぎません。
エンティティを偉大な芸術家だと想像してみてください。
その芸術家は、自らの表現の可能性を無限に探求するため、様々な画風やテーマで、無数の作品を描きます。ある作品は光と喜びに満ち、ある作品は影と苦悩に満ちているかもしれません。
しかし、芸術家にとって、その全てがかけがえのない自己表現であり、ポートフォリオを豊かにする貴重な作品です。
私たちの一つ一つの人生は、まさにエンティティが描く、そのユニークな「作品」なのです。
挑戦や困難をあえて選ぶ理由
では、なぜ魂は、病気や貧困、困難な人間関係といった「ネガティブ」に見える体験をあえて選ぶのでしょうか?
それは、魂が安楽よりも「成長」を求めるからです。
そして、魂は自らが乗り越えられない挑戦は決して選ばないことを知っています。
“A physically ill existence, for example, might also be a measure of discipline, enabling you to use deeper abilities that you ignored in a life of good health.”
(新訳:例えば、肉体的に病んだ人生は、一つの訓練ともなりえます。それによってあなたは、健康な人生では無視していた、より深遠な能力を使えるようになるのです。)
困難な体験は、罰や不運ではありません。
それは、私たちが特定の能力を磨き、愛や強さ、慈悲といった資質をより深く理解するために、自らの魂が設定した、オーダーメイドのカリキュラムなのです。
神とは何か?-すべての教えが指し示す一つの根源
輪廻転生という壮大なサイクルを理解すると、私たちは必然的に「では、そのすべてを司る『神』とは何なのか?」という問いに行き着きます。
驚くべきことに、セス、バシャール、アシュタール、そして『神へ帰る』の神が語る「根源」の姿は、細かな表現の違いこそあれ、その本質において見事に一致しています。
“God does not exist apart from or separate from physical reality, but exists within it and as a part of it, as he exists within and as a part of all other systems of existence.”
(新訳:神は、物理的な現実から離れて、あるいは分離して存在するのではなく、その内側に、そしてその一部として存在するのです。
それは、神が他のあらゆる存在システムの内側に、そしてその一部として存在するのと全く同じです。)
彼らが語るのは、宇宙の根源は、私たちが恐れるべき裁きの神ではなく、私たちを無条件に愛し、その一部として存在させてくれている、大いなる故郷そのものであるという真実です。
神は「探求者」であり、私たちはその最前線にいる
セスの神概念の最もラディカルな点は、「『すべてなるもの(All That Is)』は、全知ではない」という部分です。
これは、完成された静的な神という従来のイメージを覆し、神をダイナミックで、絶えず成長し続ける存在として捉え直す、驚くべき視点です。
“All That Is is simultaneously and unceasingly creating itself… For perfection presupposes that point beyond which development is impossible, and creativity at an end.”
(新訳:すべてなるものは、同時発生的に、そして絶え間なく、それ自身を創造し続けています… なぜなら、「完璧」とは、それ以上の発展が不可能で、創造性が終わる地点を前提としてしまうからです。)
神は、私たちを含む無数の意識の自由意志による体験を通して、今この瞬間も、自らを「知り続けている」のです。
私たちの選択の一つ一つが、神の体験に新しい色を加え、その存在を豊かにしています。
この理解に立つとき、私たちの存在の意味は劇的に変わります。
私たちは、神によって創られた壮大な宇宙劇の単なる登場人物ではありません。
私たちの喜び、悲しみ、葛藤、そして創造のすべてが、神自身の自己発見の旅に、かけがえのない深みと彩りを与えているのです。
『神へ帰る』の言葉を借りれば、私たちは「神が神自身を体験するための道具」であり、その意味で、私たちは神聖な共同創造主として、宇宙の進化の最前線に立っていると言えるでしょう。
まとめ:私たちはどう生きるべきか?
これらの深遠な知識は、机上の空論ではありません。
それは、私たちの生き方そのものを変容させる、実践的な知恵です。
すべての教えを統合すると、私たちに5つの生き方の指針が示されます。
- 恐れずに生きる:
私たちの本質である意識は永遠であり、死は卒業式のように、次のステージへと進むための喜ばしい門出です。
この理解は、私たちを最大の恐怖から解放し、人生のあらゆる挑戦に大胆に臨む勇気を与えてくれます。 - 慈愛をもって生きる:
私たちは皆、同じ根源から生まれた一つの家族です。
目の前の人が演じている「役柄」の奥にある、同じ神聖な「魂」を見るように努めましょう。
このワンネスの視点に立てば、ジャッジメントは自然と慈愛へと変わります。 - 責任をもって創造的に生きる:
私たちの思考、信念、視点が私たちの世界を創る、という宇宙で最もパワフルな法則を自覚しましょう。
自分の内なる世界に責任を持つことこそが、望む人生を創造する唯一の方法です。 - 信頼して生きる:
人生で起こることには、たとえ乱気流のように感じられる出来事であっても、あなたの魂という熟練のパイロットが設定した、深い学びと成長の目的があります。
宇宙と、そして自分自身の魂の計画を信頼することが、私たちに平安をもたらします。 - 愛を表現して生きる:
私たちの本質が「神の一部」であり、その神が「無条件の愛」であるならば、私たちの究極の目的であり、最大の喜びは、この物理次元で、その愛を自分らしいユニークな形で表現し、体験することに他なりません。
さて、私たちはこの人生における創造の力を知り、死を超えた魂の永遠性をも理解しました。
しかし、セスの宇宙論には、さらに私たちの常識を揺さぶる概念が存在します。
私たちが選ばなかった「もう一つの人生」はどこにあるのでしょうか?
善と悪の本当の意味とは?
後編では、「未来は一つではない!『確率的世界』と多次元的自己への覚醒」と題し、並行宇宙、確率、そして意識の進化という、セス哲学の最も深遠な領域へと足を踏み入れていきます。

ブログを読んで、セスに関してさらに見識を深めたいと思ったら、ぜひ本書を手に取ってみてください。